末妹の話
ロストークを見ていた末っ子のはなし
わたしは昔、今ははるか南へ戦いに行っているつよいつよい兄を、悲しませたことがある。それは些細なひとことで、ほんのすこしのいたずら心と軽い気持ちのからかいのつもりだったのだ。
なにも考えていなかった。なにも考えなくてよかった。だからこそ、それはそれはあっさりと、あんなにもひどいことを、わたしは口にしたのだ。
「ローシャの魔術はとってもつめたいけれど、それでも冬の玄関くらいのつめたさなのね!」
わたしの肌に触れていたのは、兄がわたしを護るために使う力の、ほんのわずかな余波に過ぎない。
護られるばかりの子供は、自分が護られた安全圏にいることにも、安全圏がどのように作られているのかにも、気付いていなかった。
力の中心にいる兄が、どれほどの寒さに身をさらしているのかも、知らなかった。
この故郷にいたころから、兄の魔術は確かに、ジェド・マローズの杖が放つ氷の嵐のように強く冷たかった。的にした生木の丸太を一撃で丸ごと芯まで凍らせていたのだから、ただの人間など、小さな子供など、瞬きの間に凍り付いて肌が裂けるような凍気を扱っていたのだ。
寒いとはいえ屋内のつめたさに例えられたのは、ひとえに。
わたしが、兄からとても離れたところにいたからだ。
そんなことは兄も承知のはずだった。離れているように言ったのは、兄だったのだから。
それなのに、兄は、転んで痛くて泣きそうなのを我慢しているような顔をした。それから、泣いているのか笑っているのか、どちらにも見える顔をして少し肩を震わせて。
そうして、まだ泣きそうな顔で、うれしそうに笑って見せた。
「そう、だね。うん。……ここはさむい、から。近くに来ては、いけないよ」
……とんでもない、間違いをしたような気がした。
けれど、自分がどんな間違いを犯したのかが、わからない。
とても愛おし気にこちらを見てほほ笑む兄に、私はしばらく言葉を失って、それから小さくうなずくことしかできなかった。うなずく私を見て、兄もうなずき、くるりと背を向ける。
大きな、おおきな、誰よりもたくましい背中が。いつだってわたしのそばにいて、ねだれば抱っこでもおんぶでもしてくれる大好きな優しい背中が。どんなに走っても、泣いて叫んでも届かないほど、遠く小さく見えた。
あんまり遠くて、怖くなって近寄ろうとしたけれど、さっき兄は「来るな」と言った。だからわたしの足はその場から動かなくて、また術の鍛錬を始めた兄の姿を黙って見ているしかできない。
涙が出そうだ。
そう思ったところで、すいと隣に並んだ人がいた。二番目の兄、ヴァーニャだ。
「……ローシャが、寂しいのが嫌いなの、知ってるよな」
声変わりが始まったばかりの、風邪ひきのような声で小さく話しかけてくる。見上げれば、ヴァーニャは静かだけれどとても苦い顔をしていた。
兄はとても強くて、いつだってしっかり背筋を伸ばして立っているから、わたしは彼が寂しがりなんて子供みたいな性格をしているなんて思っていなかった。でも、兄がわたしたちのことを大好きで、いつだってそばにいたいと思ってくれていることはよく知っている。
ヴァーニャは、わたしが返事をするのを待たずに、また口を開いた。
「ローシャの術は、狙った相手だけを凍らせるように組み上げてるんだ。いまなら、あの丸太だけ、凍らせようとしている。……わかるか?」
ヴァーニャが指さしたのはついさっき兄が凍らせた丸太で、急な凍気にあてられた生木は膨張した水分に木肌を裂かれ、白く光っていた。丸太を中心にして、ささやかに生えたくるぶしの高さまでも伸びない小さな草も、すっかり霜が降りてきらきらしている。きっと触れたら、糸のように細いつららと同じように、ぱりぱりと折れてしまうだろう。兄の足元で、踏まれた草が起き上がってくる様子はなかった。
「丸太一つを凍らせるための寒さの余波で、こんなに遠くにいるのに底冷えする」
ローシャが寒くてたまらないのはわかるだろう、とヴァーニャはわたしを見下ろした。一つうなずく。夏だというのに、術の練習をするときの兄は真冬のコートを着ているのだから、彼が寒くない場所にいるとは思えない。
「……学校が休みになるくらい寒いところに一人でいて、『わたしのいるところは大して寒くない』と言われたら、遠いな、と思わないか」
あっ、と、わたしは口を押えた。確かに、遠い。
まるで違う世界にいるように感じるだろう。隣には誰もいなくて、聞こえる声も、触れっこないほど遠くて。誰も温めてはくれない。
「ローシャは……近くにいるけど、俺たちと違う世界にいるんだ。寒くて、痛くて、怪我をして血が出るのも当たり前の世界にいる。でも、ローシャが俺たちの怪我を見て、たいしたことない、我慢しろなんて言ったこと、あるか?」
首を横に振る。兄は、ヴァーニャが言うところの、「わたしたちの世界」にいるみたいに、小さな怪我でもとても心配して丁寧に手当てをしてくれる。
――『近くに来ては、いけないよ』
僕のいる世界に、来てはいけないと。あのとき、兄はそう言ったのだ。
「俺たちには、ローシャがいる世界に踏み込んで無事でいられる力はない。だから、ローシャは『来るな』と言ったんだ。ローシャがあっちにいるのは、俺たちのことが大事だから、俺たちがあっちに引きずり込まれなくてもいいように」
それでは、誰が兄を温めるのだ。一人きりで、氷の斧を抱いて、凍り付いた世界で、傷ついて、凍えるのに、誰も兄のそばに行けない。手を差し伸べることもできない。
「お前が間違ったのは、ローシャに改めて距離を突きつけたことだ。ローシャはもともと、……俺がわかるよりずっと前から、自分が遠くにいることは知ってる。だから、それはまだいい」
ヴァーニャは、嫌そうな顔をしながらわたしの顔を乱暴に袖で拭った。泣いていたらしい。気づいても涙を止めることなんかできなくて、しゃくりあげながら次兄の話を聞く。
「ローシャは、少しおかしいから。さっきうれしそうな顔したろ。お前がちゃんと、自分のいる世界から遠いところにいてくれると思ったからよろこんだんだ」
それでは、いよいよ兄を温められる人などいないではないか。兄が愛しているのはわたしだけではない。ヴァーニャのことだって、ほかのきょうだいのことだって、じいさまやばあさまや、村の人みんなのことが大好きだ。好きな人みんなに寒くない世界にいてほしいという兄の願いが叶っている以上、誰も兄に近づけはしない。
「ケルベロスに、なったら、ローシャのそばに行けるの」
涙でぐずぐずになった声で問えばヴァーニャは少しだけ唇を噛んで、ゆっくりと首を横に振る。
「そばには行けるだろうが、ローシャは喜ばんだろうな」
「なんで!」
「ローシャだって痛いもんは痛いんだ。耐えられるだけで。俺たちがその痛みに耐えられるようになったからって、それで戦場に出てもやっぱり痛いもんは痛いだろ。……ローシャは、俺たちに痛い思いをしてほしくないんだから」
兄がなにを考えて槍斧を握っているのか、かっこいいとしか思っていなかった私が、やっと理解したのはこの時だ。
「ローシャは、勝手よ! 一人でわたしたちを護って、一人で、本当に手の届かないどこかに行ってしまうかもしれないなんて!」
「そうだな」
当然のように短く答えたヴァーニャをキッとにらみつければ、次兄はため息をついた。
「だから、俺たちは、ローシャが迷子にならないように、ちゃんとここにいなくちゃいけない。ここにいて、呼び続けてやらないといけない」
「なに、それ」
「ローシャは、帰ってくるだろ。術の練習からも、取っ組み合いの訓練からも。家にいるときのローシャ、寒そうか? 寂しそうか?」
聞かれて思い返せば、そんな風に見えたことはない。
「ローシャはずっと向こうにいるんじゃなくて、行ったり来たりしてるんだ。だから、帰る家があって、帰ってくればあったかくてちゃんと人がいるってことを忘れなければ、凍える前に帰ってくる」
「ほんとに?」
「ああ」
多分な、と言う次兄も少し自信がなさそうで、どうしようもなく心細かった。
「忘れちまったらどうやって引っ張り戻せばいいかわからんが、だが、忘れなければ帰ってくるだろうさ。お前たちや、どういうわけか俺のことも、大好きらしいからな」
まったく手のかかる、とまるで自分が兄になったかのようにぶつくさ言うヴァーニャの後ろから、ぬっと影が差す。
「ヴァーニャ、カチューシャを泣かせたね?」
……いつの間にか、兄が後ろに立っていた。
「俺じゃねえ! 泣かしたのはあんただクソ兄貴!」
「ええ?」
「ちっ、うっとうしい、寄るな!」
ヴァーニャはあっという間に逃げて行ってしまって、わたしと兄だけが残された。
「……なんで泣いていたのか、聞いても?」
「ないしょよ!」
待って呼んでやらないと、なんて殊勝なことを言っていたヴァーニャが、兄が戦場に持っていける武器を作り始めていたなんて知ったのはだいぶ後になってからだし、三番目の兄たちがやはり戦場に着ていけるコートを仕立てたと知ったのも兄が日本へ向かうと決まってからだった。わたしはなにも用意できていなくて、抜け駆けしていた兄たちにずるいずるいと食って掛かって駄々をこねたものである。
特別役に立たなくても、帰る場所があるとわかる、いつでも持ち歩けるものをとっさに差し出した、私の判断は、間違っていたのだろうか。
ひとまずの日本での住処を探しに旅立つ兄の髪に、わたしは自分のヘアリボンを結んだのだった。
0コメント